Apfelstrudel

道の途上

高潔さについて

「問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。」

(リルケ『若き詩人への手紙』)

 

求めるのは真なる知識それ自体である。想像力に基づく知識でも、自己顕示欲のために利用する知識でもない。諸々の軽薄な知識から離れ、思考し、真理を求めること。

 

論証が妥当でないということは、それだけ真理から遠ざかっているということを意味する。妥当な論証はそれ自体善く、かつ美しい。思考を厳密にし、その帰結を他者に対して説得的に提示できるようにすること。また、他者の考えと、その考えに対する自分の理解の枠組みの両方を理解するよう努めること。

 

書物の中であれ、日常生活の中であれ、真理は隠れることを好む。ある目的によって人生全体を秩序づけることで、現実の経験からこぼれ落ちてしまう事柄がある。機を見極め、逃さないこと。

 

上記の事柄をつねに心に留めておきながら、行動すること。回り続ける独楽のように、軸を保ちながら、動き続けること。手を止めないこと。足を止めないこと。

2017.12.10 14日目

今日も勉強したな、と思いながら夜遅く大学図書館を出ると、道の脇の暖色のライトと、控えめな夜景と、星空とがある。ほとんど足音の聞こえないレンガ道をこつこつと歩く。この瞬間が私には愛おしい。

吐く息の白さに自らが生きていることを、澄み渡った星空に自らが世界の中に存在していることを実感する。私はつねに息をして、いまここで生きている。冬が来た。

昨日は或る区切りだった。それに伴いTwitterの或るアカウントをいじってしまったが、投稿したいことのみ投稿してすぐに切り替えることができた。この点で精神が少し自由になったと思う。

また、気持ちが落ち着かないときや少し悩みがあるときでも、気持ちを切り替えて勉強に集中できるようになった。長らく苦労していたことだ。この点でも精神が少し自由になったと思う。

(公表はしないが)「習慣化すべきことリスト」を今のところ毎日継続して行うことができている。この調子で前進あるのみ。

2017.12.06 10日目

Twitterを見るのをやめて10日経った。その時間を他のものに浪費するというわけでもなく、ひたすらタスクをこなしたり、好きな本を読んだりしている。朝起きて最初に開くのは、スマホではなくフランス語の文法書かもしくは聖書になった。

 

節制ができるというのはそれ自体魅力だと思う。自分の本当にやりたいことに精神を向けるために、他の不要なものに精神を向けない、ということができる人は存外少ない。

 

来年を考えると、この2ヶ月が頑張りどきだ。やるなら今だ。しかしあまり気張りすぎないように前に進もう。学問をするとはそれ自体幸福なのだから。

2017.11.28 晩秋

抽象的に記そうと思う。一定数の人々にとっては具体的に何を語っているかがわかるだろう。まとまっているかはよくわからない。

壮絶な4ヶ月を終えた。本来こういうことを周囲の目に触れる形で書き残すことはよくないのだが、今回の自分の役回りを、これを見ている人が経験することはないだろうから、今回ばかりは問題ないだろう、と判断した。

この4ヶ月の間に、大きなイベントが3つほどあった。そのうち2つで、イベントの責任者というか、欠かすことのできない役職についていた。

7月末、いつの間にかタスクが山積していた。というよりは、山積していることがわかった。もう少しこれから半年間ほどの予測を綿密にすることができていたら、もう少し察しがよかったら、もう少し自分が器用だったら、と幾度となく日記に書いた。

いきなり要求されたハードルの高さに非常に困惑した。今置かれている情況とやるべきことについてとにかく手帳に書き殴った。真っ黒だ。まずい、希望が見えない、どうしたらいいかわからない、とよく周囲に漏らしていた。悩み事リストを具体的に作ったら30個以上リストアップされた。枕を濡らすこともあった。

この4ヶ月のうちで、具体的にいつだったか忘れてしまったが、私としては大きな心境の変化があった。生きていくうちで、自信があるとかないとか、準備ができているとかできていないとか、希望があるかないかとか、関係なしに、ある決断を否応なく迫られるときがある。自分に何ができるか、突然試されるときがある。それはいつ訪れるかわからない。私はそのことを知ると、私がこれをやるんだ、この人生は私こそが生きるんだ、と腹を括った。

以前から私には幼さが抜けていない自覚があった。容姿の面でもそうだが、それ以上に精神面においてである。どうしたらひとつ垢抜けて、自分の抱く理想像に近づくことができるのか。そんなことをウジウジ悩む日々にはある程度区切りをつけることができたのではないか、と思う。

ともあれ、親切な人々の助けもあり、無事にイベントを終了した。現在は比較的静かな日々を過ごすことができている。とは言っても、この期間にできなかったことの埋め合わせをするのに必死である。あと2ヶ月ほどは、真っ黒な手帳からは逃れられないだろう。今一度、腹を括ることにしよう。

2017.03.17 西へ

哲学の学び方は、哲学史の全体像を一度把握し、多様な考え方にアンテナを張った後は、その中で特に気になった哲学者の著作を精読し、自らの思索の指標にする、というのが一般的であるらしい。

 

この2年で関心が多く振れてしまったが、私は結局スピノザという哲学者を選ぶことにした。残り(少なくとも)2年間は、彼の主著『エチカ』(『幾何学的秩序で論証された倫理学』)を精読し、彼の思索の骨子に可能な限り肉迫していきたいと思う。

 

 

さて、2017.03.17は私がスピノザに関心を持つきっかけを作ってくださった、スピノザ研究者の上野修先生の最終講義に行ってきた。先生の著書『スピノザの世界 神あるいは自然』(講談社現代新書)を読んだことが、おそらく私がスピノザに関心を持つようになった直接的なきっかけであったと思う。

 

東京から大阪へ、古来から伝わる通り、真理を求めて西に、というわけである。


最終講義の様子はこちらの動画で閲覧することができる。https://m.youtube.com/watch?v=IwDwN4ztUoA

 

やはり上野先生のスピノザ論は面白いし、先生自身もスピノザの哲学を面白いと思いながら論じていらっしゃるのがわかるので、話を聞いていて非常に楽しい。

 

先生もおっしゃっていたが、スピノザの魅力のひとつははその着想の異様さにあると思う。『エチカ』は、説明抜きで唐突に「自己原因」や「実体」の定義から始まり、「倫理学」なのにユークリッド『原論』のようなスタイルで唐突に諸定理が「論証」される。また、倫理学なのに「〜すべし」という命法が一切含まれていない。彼の他の主著『神学政治論』では、聖書は真理を教えるものではないとしながらも、聖書の権威自体は擁護する(結局は弾圧を受けることになるのだが)。

 

それらがあからさまな形で示されているため、かえってよくわからない。だからこそ面白い。

 

元々私は「人間とは何か」「われわれとは誰か」という人間学的な関心を持っていた。しかし、スピノザの体系の中では、そのような「主体」は問題にならない。存在するものはすべて唯一の実体たる神であり、人間、すなわち思惟と延長を持つものはその様態にすぎない。ある体系ではある問題は問題にならなくなる、そのような体系に関心を持つようになったのも、スピノザに惹かれるひとつの理由である。

2017.11.26 このブログについて

Twitterアカウントが @durationes の人。

 

たんにブログのIDが気に入らなかったという理由で、ブログを作り直した。今後はこちらのブログを更新していきたい。

 

ブログを移行するのも一苦労であるし、近況報告を行うのにも一苦労である。次に時間ができたときに、これまでの11ヶ月どのようにして過ごしてきたか、簡潔に報告したいと思う。一先ずはここまで。

2016.12.25 クリスマス

今日はクリスマスで、かつ安息日である。私は初めて教会に行ってきた。ひとりで。

初めは行くのに抵抗があった。書物において宗教を眺めるのと、実際にその場を体験するのはやはり異なる。教会に向かいながら、本当に私はこれから教会に行くのか、やはりやめておいたほうが良いのでは、キリスト教徒でもないのに、クリスマスに初めて行くなんて、という考えが幾度か頭をよぎった。

仮に、教授の「日本の教会はもはや布教を諦めているので大丈夫ですよ」という助言や、友人に実際に教会に行ったことのある人がなかったら、教会に行くことはなかったと思う。未知の場所に行くのには勇気がいる(この点私はかなりのビビりである)し、クリスチャンになりたいわけでもなかったから。しかし、一度中に入ってみないとわからないものはある、と結局日曜の礼拝に来てしまった。

入口で挨拶をしている女性がいた。一目で僕が初めて来たというのを察したらしく、「よろしければお名前をここにお書きください。」と言われた。私は何の気もなく名前を書いた。「聖書はお持ちですか?」と聞かれたので、はい、と答えた。教会の週報と、献金を入れる封筒と、交読本なるものが配布された。

子連れの人が何人かいる。子ども用の部屋が別個に用意されていた。礼拝中は子どもはそこで遊んでいた。それ以外は老人ばかりだった。席に着いている人々はみな両手を組み、俯いていた。若者は僕ひとりだった。でも、聞いたところによれば、求道者会なる若者たちの集いも開催されているらしい。

室内はオルガンの音が響いていた。「前奏」らしい。クリスマスの飾り付けと、ステンドグラス、キャンドルの灯りが暖かい照明とともに調和されていた。落ち着く人は落ち着くのだろう。私にとっては異質な環境だったので落ち着けなかった。私は席に着いた。

まもなく礼拝が始まった。内容はもうあまり覚えていない。招詞を終えて、讃詠に入った。起立してみんなで何かを歌っていた。普段から礼拝に親しんでいる人は、そう、僕が大学の授業を受けるように、棒術の稽古に取り組むように、習慣として取り組むことができるのだろう。僕は頭が真っ白になってしまった。

主の祈りを経て、交読が始まった。ここぞとばかりに自分の聖書を出す。司会の人が、「ヨハネの黙示録 21章」と読み上げると、司会の人が数節音読で、参加者が皆で次の何節かを音読する。何の基準で自分たちの読む箇所が決まるのかがわからなくて、とりあえず周囲に合わせることにした。内容が頭に入らなかった。

次はモーセ十戒を読み上げることに。ここでようやく交読本の意義を知った。交読本にその箇所が記載されているのを知った。耳が真っ赤になった、と思う。

今度は讃美歌を歌うらしい。周囲の人は讃美歌集を開いた。そういうのがあるのか。歌詞もメロディも全くわからないので、手を組んで俯いていた。しばらくすると、私の様子を察したのか、会員の人が私に貸し出し用の讃美歌集を貸してくださった。どうしてここに来たんだろう、と思った。

今度は司会の人が聖書を朗読する。詩篇の32篇と、ガラテヤの信徒への手紙の4章を読んだ。ようやく頭が回ってきた。…お前は座学に慣れすぎかよ。なお、これは交読本には記載されていなかった。

また祈祷と讃美歌を終えてからは、牧師の説教の時間が始まった。快活なおじさんといったように見えた。先ほど読んだヨハネ黙示録、詩篇、ガラテヤの信徒への手紙の話。…
世の人の多くは、君子危うきに近寄らず、と無難な人生を歩もうとする。自分の身の安全を第一に考え、苦しむことを避ける。目先の些事に目を奪われ、本質を見ようとしない。自分のことを最優先に考え、他者を蔑ろにし、競争に身を投じて、そして死ぬ。彼らはサタンに唆されているのだ。世を支配するサタンに。

今日はクリスマス。世の人の多くは、クリスマスの本当の意味を知らずに、年々派手になるイルミネーションに心を奪わる。しかし、クリスマスは、神が人となってこの世におはしました日。キリストが人間を憐れんで、人類のために痛ましい生を引き受けた日。

「…同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(中略)ですか、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙 4. 3-5,7)

世の諸霊、すなわちサタンの奴隷であったわれわれに、神は自ら人となって、救いの道を示してくださった。キリストが降誕して二千年後、未だに奴隷になり続けている人がいる。その道ではなく、人が神の国へと至る「あの道」を選んだとき、その人にとってのクリスマスは始まるのである。すべての人間が、サタンとではなく、キリストとともに生きる道を選びますように。アーメン。

と、こんな内容だった気がする。内容が大分記憶から欠けている。しかし、牧師の語り口がかなり熱かったこと、語り口にも内容にもかなり感銘を受けたのは覚えている。確かに、最近の私は安穏な道を選ぼうとしていたし、多数派に同調しようともしていた。世俗的な幸福を求め、そのもとに死のうとしていた。でも、私が選ぶべきは、“少なくとも”「この道」じゃないな、と改めて思い至った。まあこれは多分に自分に引きつけた理解ではあるが。

その後祈祷と讃美歌が終わると、司会の人が「信仰告白を済まされた方は聖餐を受け取り神の〜(内容忘れた)に感謝し、済まされていない方はその厳かな雰囲気を味わってください」みたいなことを言った。会員の代表者(長老という人らしい)が前に出て、風呂敷を払うと、パンとワインがそこにあった。私は信仰告白をしていないので受け取らなかったが、他の周囲の人々は全員受け取っていた。そのとき、私とかれらとの溝を感じてしまった。ああ、そうか、全人格を懸けてイエス=キリストとともに生きている人と、私とはその生が全く異なるんだ。

続いて、日本基督教団信仰告白なる文言の全員での朗読が始まった。私は交読本を眺めるだけで、一切言葉を発しなかった。かれらとの差異を明確に感じてしまった。献金の回収も始まったが、断った。これまで何かしら惹かれるものがあってキリスト教思想を学んできたが、急に全く異質のものと思えてきて、少し気分が悪くなった。やはり、単に思想の内容を主知化するのと実際に体験するのは違う。

日頃アウグスティヌスの『告白』を読んだり、エックハルトの説教集を読んだりして、新たに見識を得て、それに感銘を受けたりしていた。しかし、実際に「じゃあ君もキリストとともに生きよう」と一歩先に道を示されると、いやちょっと待ってくれ、となってしまう。ここで私を引き留めるものは何なのだろう。

まだニーチェを読んでいないから、コーランを読んでいないから、親鸞をもっと勉強したいから、そこからまた判断したい、とそういう理由なのだろうか。実家は浄土真宗だし、真宗に深く共感する部分も多い、とそういう理由なのだろうか。

私は過去の体験により何かしら超越的なものの存在を信じているが、それがキリスト教の神なのか、それともまた別の何かなのか、よくわかっていない。それを明らかにしたいというのが、宗教思想を学ぶ目的のひとつではある。しかし、まだ宗教思想に関してひっかかる部分は多くある。そういう理由なのだろうか。

少し考えてみたが、私の抱く違和感はそれとは異なるらしい。上のような、主知的な根拠ではなく、自分とは異質のところに足を踏み入れるのが怖い。その一歩は、自分の全人格を懸けた、根本的な飛躍。ゆえに、一度踏み出したらもう元には戻れない。

その後記念撮影なるものがあったらしいが、すぐに教会を飛び出してしまった。説教に感銘を受け、今もそれは変わらないのであるが、私のクリスマスは始まらなかった。

【追記】書物の世界だけでなく、生き生きとした現実の世界を知らなければいけないという気持ちになっている。これまでは、世の中のことを一旦忘れ、思想の世界に没入したいと躍起になっていたが、それで見えなくなるものがあると気づかされた。そんなクリスマス。