Apfelstrudel

道の途上

2018.02.23 ひとつの愛

1万字程度のレポートを書いた。いくらか論証を抜かしてしまったが、限られた時間で妥協はしなかった。これが今の私の実力である。ここはひとつ、長文を書いたという事実によって達成感を得ておく。

いつもお世話になっている、大切な人へ向けて書いた。その人を思い浮かべながらテーマを考えたら、「スピノザ『エチカ』における愛の概念について」というタイトルが付いた。書いている途中何回も挫折しそうになったが、その人に渡したいという意地によってなんとかやり遂げた。非常に感謝している。僕はその人に近親者のような愛の感情を持っている。

もうひとつの意味合いとしては、卒論の準備作業をこの時期に行っておきたかった、というのがある。1万字書くという感覚はどのようなものか、現時点でどれだけテーマの本を読めているのか、卒論テーマを書く際の思考の過程はこれで正しいのか、などの確認をしておきたかった。その目的は不完全ながらも達成された。

なんにせよこれで一区切りである。大学生活はあと四分の一。特段焦りはしないが、やるべきことややりたいことは山積みである。とにかく求めること。この一年がおそらく一番楽しいはずである。

高潔さについて

「問い自身を、例えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。」

(リルケ『若き詩人への手紙』)

 

求めるのは真なる知識それ自体である。想像力に基づく知識でも、自己顕示欲のために利用する知識でもない。諸々の軽薄な知識から離れ、思考し、真理を求めること。

 

論証が妥当でないということは、それだけ真理から遠ざかっているということを意味する。妥当な論証はそれ自体善く、かつ美しい。思考を厳密にし、その帰結を他者に対して説得的に提示できるようにすること。また、他者の考えと、その考えに対する自分の理解の枠組みの両方を理解するよう努めること。

 

書物の中であれ、日常生活の中であれ、真理は隠れることを好む。ある目的によって人生全体を秩序づけることで、現実の経験からこぼれ落ちてしまう事柄がある。機を見極め、逃さないこと。

 

上記の事柄をつねに心に留めておきながら、行動すること。回り続ける独楽のように、軸を保ちながら、動き続けること。手を止めないこと。足を止めないこと。

2017.12.10 14日目

今日も勉強したな、と思いながら夜遅く大学図書館を出ると、道の脇の暖色のライトと、控えめな夜景と、星空とがある。ほとんど足音の聞こえないレンガ道をこつこつと歩く。この瞬間が私には愛おしい。

吐く息の白さに自らが生きていることを、澄み渡った星空に自らが世界の中に存在していることを実感する。私はつねに息をして、いまここで生きている。冬が来た。

昨日は或る区切りだった。それに伴いTwitterの或るアカウントをいじってしまったが、投稿したいことのみ投稿してすぐに切り替えることができた。この点で精神が少し自由になったと思う。

また、気持ちが落ち着かないときや少し悩みがあるときでも、気持ちを切り替えて勉強に集中できるようになった。長らく苦労していたことだ。この点でも精神が少し自由になったと思う。

(公表はしないが)「習慣化すべきことリスト」を今のところ毎日継続して行うことができている。この調子で前進あるのみ。

2017.12.06 10日目

Twitterを見るのをやめて10日経った。その時間を他のものに浪費するというわけでもなく、ひたすらタスクをこなしたり、好きな本を読んだりしている。朝起きて最初に開くのは、スマホではなくフランス語の文法書かもしくは聖書になった。

 

節制ができるというのはそれ自体魅力だと思う。自分の本当にやりたいことに精神を向けるために、他の不要なものに精神を向けない、ということができる人は存外少ない。

 

来年を考えると、この2ヶ月が頑張りどきだ。やるなら今だ。しかしあまり気張りすぎないように前に進もう。学問をするとはそれ自体幸福なのだから。

2017.11.28 晩秋

抽象的に記そうと思う。一定数の人々にとっては具体的に何を語っているかがわかるだろう。まとまっているかはよくわからない。

壮絶な4ヶ月を終えた。本来こういうことを周囲の目に触れる形で書き残すことはよくないのだが、今回の自分の役回りを、これを見ている人が経験することはないだろうから、今回ばかりは問題ないだろう、と判断した。

この4ヶ月の間に、大きなイベントが3つほどあった。そのうち2つで、イベントの責任者というか、欠かすことのできない役職についていた。

7月末、いつの間にかタスクが山積していた。というよりは、山積していることがわかった。もう少しこれから半年間ほどの予測を綿密にすることができていたら、もう少し察しがよかったら、もう少し自分が器用だったら、と幾度となく日記に書いた。

いきなり要求されたハードルの高さに非常に困惑した。今置かれている情況とやるべきことについてとにかく手帳に書き殴った。真っ黒だ。まずい、希望が見えない、どうしたらいいかわからない、とよく周囲に漏らしていた。悩み事リストを具体的に作ったら30個以上リストアップされた。枕を濡らすこともあった。

この4ヶ月のうちで、具体的にいつだったか忘れてしまったが、私としては大きな心境の変化があった。生きていくうちで、自信があるとかないとか、準備ができているとかできていないとか、希望があるかないかとか、関係なしに、ある決断を否応なく迫られるときがある。自分に何ができるか、突然試されるときがある。それはいつ訪れるかわからない。私はそのことを知ると、私がこれをやるんだ、この人生は私こそが生きるんだ、と腹を括った。

以前から私には幼さが抜けていない自覚があった。容姿の面でもそうだが、それ以上に精神面においてである。どうしたらひとつ垢抜けて、自分の抱く理想像に近づくことができるのか。そんなことをウジウジ悩む日々にはある程度区切りをつけることができたのではないか、と思う。

ともあれ、親切な人々の助けもあり、無事にイベントを終了した。現在は比較的静かな日々を過ごすことができている。とは言っても、この期間にできなかったことの埋め合わせをするのに必死である。あと2ヶ月ほどは、真っ黒な手帳からは逃れられないだろう。今一度、腹を括ることにしよう。

2017.03.17 西へ

哲学の学び方は、哲学史の全体像を一度把握し、多様な考え方にアンテナを張った後は、その中で特に気になった哲学者の著作を精読し、自らの思索の指標にする、というのが一般的であるらしい。

 

この2年で関心が多く振れてしまったが、私は結局スピノザという哲学者を選ぶことにした。残り(少なくとも)2年間は、彼の主著『エチカ』(『幾何学的秩序で論証された倫理学』)を精読し、彼の思索の骨子に可能な限り肉迫していきたいと思う。

 

 

さて、2017.03.17は私がスピノザに関心を持つきっかけを作ってくださった、スピノザ研究者の上野修先生の最終講義に行ってきた。先生の著書『スピノザの世界 神あるいは自然』(講談社現代新書)を読んだことが、おそらく私がスピノザに関心を持つようになった直接的なきっかけであったと思う。

 

東京から大阪へ、古来から伝わる通り、真理を求めて西に、というわけである。


最終講義の様子はこちらの動画で閲覧することができる。https://m.youtube.com/watch?v=IwDwN4ztUoA

 

やはり上野先生のスピノザ論は面白いし、先生自身もスピノザの哲学を面白いと思いながら論じていらっしゃるのがわかるので、話を聞いていて非常に楽しい。

 

先生もおっしゃっていたが、スピノザの魅力のひとつははその着想の異様さにあると思う。『エチカ』は、説明抜きで唐突に「自己原因」や「実体」の定義から始まり、「倫理学」なのにユークリッド『原論』のようなスタイルで唐突に諸定理が「論証」される。また、倫理学なのに「〜すべし」という命法が一切含まれていない。彼の他の主著『神学政治論』では、聖書は真理を教えるものではないとしながらも、聖書の権威自体は擁護する(結局は弾圧を受けることになるのだが)。

 

それらがあからさまな形で示されているため、かえってよくわからない。だからこそ面白い。

 

元々私は「人間とは何か」「われわれとは誰か」という人間学的な関心を持っていた。しかし、スピノザの体系の中では、そのような「主体」は問題にならない。存在するものはすべて唯一の実体たる神であり、人間、すなわち思惟と延長を持つものはその様態にすぎない。ある体系ではある問題は問題にならなくなる、そのような体系に関心を持つようになったのも、スピノザに惹かれるひとつの理由である。

2017.11.26 このブログについて

Twitterアカウントが @durationes の人。

 

たんにブログのIDが気に入らなかったという理由で、ブログを作り直した。今後はこちらのブログを更新していきたい。

 

ブログを移行するのも一苦労であるし、近況報告を行うのにも一苦労である。次に時間ができたときに、これまでの11ヶ月どのようにして過ごしてきたか、簡潔に報告したいと思う。一先ずはここまで。