Apfelstrudel

道の途上

プラトン『クリトン』一読

ソクラテス以前の哲学者たちは、世界とは何か、自然とは何か、について考えていた。例えば最初の哲学者と評されるタレスは、万物の始源は水であるとした。アナクシマンドロスはト・アペイロン(無限なるもの)を考え、アナクシメナスはアーエール(空気)を考えた。ピュタゴラスは事物と数の比例関係を考え、ヘラクレイトスは万象に潜むロゴスを考えた。その後、パルメニデスの登場によって、自然を巡る思索は1つの転換期を迎えることになるが、それについては『パルメニデス』の項にて触れたい。

さて、自己の探求を初めて行なった哲学者はヘラクレイトスと言われている(ニーチェによる指摘が最初か?)が、人間がいかに生きるべきかについて初めて探求した哲学者はソクラテスである。

『クリトン』は初期対話篇に分類され、また『ソクラテスの弁明』の続編である。副題は「行動はいかにあるべきかということについて」。

クリトンが、獄中のソクラテスに対して、国外逃亡の話を持ちかける。家族やその他慕う人がたくさんいて、生き延びる手段もあるのに、安安と死を受け入れてしまってはいけない、と彼はソクラテスに説得を試みる。

ソクラテスは言う。多数派が正しいということは必ずしもありえない。多数派の何も分かっていない考えよりも、ただ1人の専門家の知のが勝る。したがって、何が正しいのかは自ら考えてみなければならない。また、彼はこう言う。

「大切にしなければならないことは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ。」

この「よく」は、全集(田中美知太郎訳)では平仮名になっているが、他の和訳では「善く」とされることがある。そして、この「善く」は、所謂善悪の善のみではなく、正邪の正、美醜の美の意味をも含む。そして、ソクラテスはクリトンにこう問いかける。

アテナイ人の許しを得ないで、ここから出て行こうと試みるのは、正しいことなのか、それとも正しくないことなのか。」

ここから吟味に入る。ソクラテスは、婚姻の法を以って生まれてきて、さらに子どもを産んだ(古代ギリシアでは、女性が子どもを産むというよりは、男性と女性のどちらも自らが子どもを産むという表現が用いられた)。ならば、ソクラテスの生は、常にすでにアテナイの法に従っているのである。そして、他の国家の法を目の当たりにしながら、アテナイの法について知っている。これは、アテナイの法に同意しているということである。

ここで、国外逃亡をするということは、三重の不正を犯している。すなわち、生みの親に服従しないこと、育ての親に服従しないこと、そして、服従することを約束しておきながら(つまり死刑を受け入れながら)服従せず、よくないと思った点を指摘しないまま国を去るということである。そのような生き方は、正しくないし、善くもないし、美しくもない。ただ生きるのではなく、よく生きることが重要なのだから。内容は以上である。

「よく生きること」においては、生と真・善・美が結合している。そのような生き方を、ソクラテスは実現できたのだろうか。少なくとも、ソクラテスは真・善・美がそれぞれ何であるかということについては、明確に知るわけでもあるまい。これは、他の初期対話篇の検討が必要だろう。

それにしても、よく生きることとは、至福であるのだろうか?よく生きることで本当に幸福になれるのだろうか?

「よく生きること」の真・善・美は、自己が至福であるということも含まれるのだろうか?定義上含まれるのであればそれを探求する価値はありそうだが、もし含まれないとしたら、それは単なる抑圧である。ただ生きるほうがマシだ。

次回は『パイドン』。