Apfelstrudel

道の途上

2016.12.25 クリスマス

今日はクリスマスで、かつ安息日である。私は初めて教会に行ってきた。ひとりで。

初めは行くのに抵抗があった。書物において宗教を眺めるのと、実際にその場を体験するのはやはり異なる。教会に向かいながら、本当に私はこれから教会に行くのか、やはりやめておいたほうが良いのでは、キリスト教徒でもないのに、クリスマスに初めて行くなんて、という考えが幾度か頭をよぎった。

仮に、教授の「日本の教会はもはや布教を諦めているので大丈夫ですよ」という助言や、友人に実際に教会に行ったことのある人がなかったら、教会に行くことはなかったと思う。未知の場所に行くのには勇気がいる(この点私はかなりのビビりである)し、クリスチャンになりたいわけでもなかったから。しかし、一度中に入ってみないとわからないものはある、と結局日曜の礼拝に来てしまった。

入口で挨拶をしている女性がいた。一目で僕が初めて来たというのを察したらしく、「よろしければお名前をここにお書きください。」と言われた。私は何の気もなく名前を書いた。「聖書はお持ちですか?」と聞かれたので、はい、と答えた。教会の週報と、献金を入れる封筒と、交読本なるものが配布された。

子連れの人が何人かいる。子ども用の部屋が別個に用意されていた。礼拝中は子どもはそこで遊んでいた。それ以外は老人ばかりだった。席に着いている人々はみな両手を組み、俯いていた。若者は僕ひとりだった。でも、聞いたところによれば、求道者会なる若者たちの集いも開催されているらしい。

室内はオルガンの音が響いていた。「前奏」らしい。クリスマスの飾り付けと、ステンドグラス、キャンドルの灯りが暖かい照明とともに調和されていた。落ち着く人は落ち着くのだろう。私にとっては異質な環境だったので落ち着けなかった。私は席に着いた。

まもなく礼拝が始まった。内容はもうあまり覚えていない。招詞を終えて、讃詠に入った。起立してみんなで何かを歌っていた。普段から礼拝に親しんでいる人は、そう、僕が大学の授業を受けるように、棒術の稽古に取り組むように、習慣として取り組むことができるのだろう。僕は頭が真っ白になってしまった。

主の祈りを経て、交読が始まった。ここぞとばかりに自分の聖書を出す。司会の人が、「ヨハネの黙示録 21章」と読み上げると、司会の人が数節音読で、参加者が皆で次の何節かを音読する。何の基準で自分たちの読む箇所が決まるのかがわからなくて、とりあえず周囲に合わせることにした。内容が頭に入らなかった。

次はモーセ十戒を読み上げることに。ここでようやく交読本の意義を知った。交読本にその箇所が記載されているのを知った。耳が真っ赤になった、と思う。

今度は讃美歌を歌うらしい。周囲の人は讃美歌集を開いた。そういうのがあるのか。歌詞もメロディも全くわからないので、手を組んで俯いていた。しばらくすると、私の様子を察したのか、会員の人が私に貸し出し用の讃美歌集を貸してくださった。どうしてここに来たんだろう、と思った。

今度は司会の人が聖書を朗読する。詩篇の32篇と、ガラテヤの信徒への手紙の4章を読んだ。ようやく頭が回ってきた。…お前は座学に慣れすぎかよ。なお、これは交読本には記載されていなかった。

また祈祷と讃美歌を終えてからは、牧師の説教の時間が始まった。快活なおじさんといったように見えた。先ほど読んだヨハネ黙示録、詩篇、ガラテヤの信徒への手紙の話。…
世の人の多くは、君子危うきに近寄らず、と無難な人生を歩もうとする。自分の身の安全を第一に考え、苦しむことを避ける。目先の些事に目を奪われ、本質を見ようとしない。自分のことを最優先に考え、他者を蔑ろにし、競争に身を投じて、そして死ぬ。彼らはサタンに唆されているのだ。世を支配するサタンに。

今日はクリスマス。世の人の多くは、クリスマスの本当の意味を知らずに、年々派手になるイルミネーションに心を奪わる。しかし、クリスマスは、神が人となってこの世におはしました日。キリストが人間を憐れんで、人類のために痛ましい生を引き受けた日。

「…同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(中略)ですか、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙 4. 3-5,7)

世の諸霊、すなわちサタンの奴隷であったわれわれに、神は自ら人となって、救いの道を示してくださった。キリストが降誕して二千年後、未だに奴隷になり続けている人がいる。その道ではなく、人が神の国へと至る「あの道」を選んだとき、その人にとってのクリスマスは始まるのである。すべての人間が、サタンとではなく、キリストとともに生きる道を選びますように。アーメン。

と、こんな内容だった気がする。内容が大分記憶から欠けている。しかし、牧師の語り口がかなり熱かったこと、語り口にも内容にもかなり感銘を受けたのは覚えている。確かに、最近の私は安穏な道を選ぼうとしていたし、多数派に同調しようともしていた。世俗的な幸福を求め、そのもとに死のうとしていた。でも、私が選ぶべきは、“少なくとも”「この道」じゃないな、と改めて思い至った。まあこれは多分に自分に引きつけた理解ではあるが。

その後祈祷と讃美歌が終わると、司会の人が「信仰告白を済まされた方は聖餐を受け取り神の〜(内容忘れた)に感謝し、済まされていない方はその厳かな雰囲気を味わってください」みたいなことを言った。会員の代表者(長老という人らしい)が前に出て、風呂敷を払うと、パンとワインがそこにあった。私は信仰告白をしていないので受け取らなかったが、他の周囲の人々は全員受け取っていた。そのとき、私とかれらとの溝を感じてしまった。ああ、そうか、全人格を懸けてイエス=キリストとともに生きている人と、私とはその生が全く異なるんだ。

続いて、日本基督教団信仰告白なる文言の全員での朗読が始まった。私は交読本を眺めるだけで、一切言葉を発しなかった。かれらとの差異を明確に感じてしまった。献金の回収も始まったが、断った。これまで何かしら惹かれるものがあってキリスト教思想を学んできたが、急に全く異質のものと思えてきて、少し気分が悪くなった。やはり、単に思想の内容を主知化するのと実際に体験するのは違う。

日頃アウグスティヌスの『告白』を読んだり、エックハルトの説教集を読んだりして、新たに見識を得て、それに感銘を受けたりしていた。しかし、実際に「じゃあ君もキリストとともに生きよう」と一歩先に道を示されると、いやちょっと待ってくれ、となってしまう。ここで私を引き留めるものは何なのだろう。

まだニーチェを読んでいないから、コーランを読んでいないから、親鸞をもっと勉強したいから、そこからまた判断したい、とそういう理由なのだろうか。実家は浄土真宗だし、真宗に深く共感する部分も多い、とそういう理由なのだろうか。

私は過去の体験により何かしら超越的なものの存在を信じているが、それがキリスト教の神なのか、それともまた別の何かなのか、よくわかっていない。それを明らかにしたいというのが、宗教思想を学ぶ目的のひとつではある。しかし、まだ宗教思想に関してひっかかる部分は多くある。そういう理由なのだろうか。

少し考えてみたが、私の抱く違和感はそれとは異なるらしい。上のような、主知的な根拠ではなく、自分とは異質のところに足を踏み入れるのが怖い。その一歩は、自分の全人格を懸けた、根本的な飛躍。ゆえに、一度踏み出したらもう元には戻れない。

その後記念撮影なるものがあったらしいが、すぐに教会を飛び出してしまった。説教に感銘を受け、今もそれは変わらないのであるが、私のクリスマスは始まらなかった。

【追記】書物の世界だけでなく、生き生きとした現実の世界を知らなければいけないという気持ちになっている。これまでは、世の中のことを一旦忘れ、思想の世界に没入したいと躍起になっていたが、それで見えなくなるものがあると気づかされた。そんなクリスマス。