Apfelstrudel

道の途上

2017.03.17 西へ

哲学の学び方は、哲学史の全体像を一度把握し、多様な考え方にアンテナを張った後は、その中で特に気になった哲学者の著作を精読し、自らの思索の指標にする、というのが一般的であるらしい。

 

この2年で関心が多く振れてしまったが、私は結局スピノザという哲学者を選ぶことにした。残り(少なくとも)2年間は、彼の主著『エチカ』(『幾何学的秩序で論証された倫理学』)を精読し、彼の思索の骨子に可能な限り肉迫していきたいと思う。

 

 

さて、2017.03.17は私がスピノザに関心を持つきっかけを作ってくださった、スピノザ研究者の上野修先生の最終講義に行ってきた。先生の著書『スピノザの世界 神あるいは自然』(講談社現代新書)を読んだことが、おそらく私がスピノザに関心を持つようになった直接的なきっかけであったと思う。

 

東京から大阪へ、古来から伝わる通り、真理を求めて西に、というわけである。


最終講義の様子はこちらの動画で閲覧することができる。https://m.youtube.com/watch?v=IwDwN4ztUoA

 

やはり上野先生のスピノザ論は面白いし、先生自身もスピノザの哲学を面白いと思いながら論じていらっしゃるのがわかるので、話を聞いていて非常に楽しい。

 

先生もおっしゃっていたが、スピノザの魅力のひとつははその着想の異様さにあると思う。『エチカ』は、説明抜きで唐突に「自己原因」や「実体」の定義から始まり、「倫理学」なのにユークリッド『原論』のようなスタイルで唐突に諸定理が「論証」される。また、倫理学なのに「〜すべし」という命法が一切含まれていない。彼の他の主著『神学政治論』では、聖書は真理を教えるものではないとしながらも、聖書の権威自体は擁護する(結局は弾圧を受けることになるのだが)。

 

それらがあからさまな形で示されているため、かえってよくわからない。だからこそ面白い。

 

元々私は「人間とは何か」「われわれとは誰か」という人間学的な関心を持っていた。しかし、スピノザの体系の中では、そのような「主体」は問題にならない。存在するものはすべて唯一の実体たる神であり、人間、すなわち思惟と延長を持つものはその様態にすぎない。ある体系ではある問題は問題にならなくなる、そのような体系に関心を持つようになったのも、スピノザに惹かれるひとつの理由である。